(【はじめに】の記事を読んでからお読みください)
「よし、じゃあ帰ろうか」
「あ、うん」
冷やかしに来たみんなが「後は若い二人で」なんて声を掛けて居なくなってしまうと、改めて二人きりを意識して緊張してきた。
ソワソワとしている私を尻目に、里村はもう一度額にキスをすると、何事もないように置かれたバッグを手に持つ。
「奈央の荷物はみんなが持ってきてくれたから、このまま帰れるかな?」
「あ、うん」
同じような言葉しか返せない私に苦笑しながら、当たり前のように全部の荷物を抱えてくれた。行動もクソイケメンかっ!
…ところで帰るというのは、どこに?
とっさに自分の部屋の惨状を思い出す。
うちはダメだ。
さすがに写真を貼ったりはしていないものの、あのストーカー部屋みたいなのは見せられない。せっかく夢が叶ったというのに、ドン引かれてフラれてしまうかもしれない!
あ、帰るって言ってもご飯食べていこう、とかお茶しよう、とかそういう『帰る』の可能性のほうが高いか!そっかそうだよね!
でも私、汗だくだから臭くなる前に早く帰りたい。
バスに乗って、更に電車に乗らないと帰れないのだ。
「奈央?」
なにも言わなくなった私に何を思ったのか、里村が私の顔を覗きこんだ。
「ひょえっ!」
「えっ?」
そのきょとんとした顔も尊いです!まだ慣れないんです!カッコ良さに!しかも三ヶ月ぶりで免疫力低下中。さっきは勢いで気にならなかったけど、やっぱり恥ずかしい。下を向いてもじもじしている私に何を勘違いしたのか、焦ったように言った。
「…やっぱり、俺と付き合うの、早まったって思ってる…?」
ああ、不安にならせたい訳じゃない。
「違うの!まだ、現実って信じられなくて。だって里村が」
「紘一」
「…紘一くんが、私を好きとか…」
恥ずかしさで尻窄みになる私と比例するように、ゆるゆると頬を上げて口元を手で覆うと目を逸らす。
「ほんと、可愛すぎるんだけど…俺どうしよう。嬉しくてどうしたらいいのかわかんない」
これが、あの百戦錬磨の里村紘一だというのか。まるで私の都合のいい妄想の中に出てくる里村紘一そのものになっている。
これはやっぱり夢なんじゃない?多分現実の私は臨終間近で、走馬灯の中にこの妄想が紛れ込んだんだ。そうに違いない。
私が異次元のものでも見るような視線を送ってしまった事に気付いたのか、恥ずかしそうに下を向いた。
「俺ばっかり張り切って恥ずかしい…」
いやいや、どう考えても違うと思う。私のほうが余裕無いでしょ。顔もまともに見れないくらいドキドキなんだから。
「ちがくて、私、汗いっぱいかいてるし、お店とかでご飯食べたりするのはちょっと…と思って」
「え?俺の家に帰ろうと思ったんだけど」
…何言ってるんだこのイケメンは。
この汗臭くて土もあっちこっち付いてる状況で、あのねずみさんホテルのスイートよりも敷居が高い里村紘一の家に行く…だと?
「行かないでしょ…普通に考えて行かないでしょ…?里村の」
「紘一」
「こ、紘一くんの家とか!ムリムリ!心の準備に一週間はもらわないと!」
いや、今回は前回みたいなヤケクソの勢いがないから一ヶ月は欲しい。私は電池が切れる瞬間のオモチャ人形みたいにブルブル首を横に振ると、一歩下がった。
「それ、どういう意味?俺の家にくるのは嫌?」
「そうじゃない!そういうんじゃなくて!」
「じゃあ決定。駐車場に車停めてるから」
そう言って荷物を持たない方の手を出すと、ほぼ強引に私の手首を握る。そのまま手のひらを合わせて…こ、恋人繋ぎーー!
…っていうか、ほんとに、この人誰なわけ?
あれえ?私の知ってる里村紘一は人の話をニコニコ聞いて、嫌われたくなくて、でも基本は人と関わるのが面倒くさくて、こんな強引じゃなかったと思うんだけど。
これじゃ、私が妄想でお世話になった『私だけに独占欲を持つ里村』そのままじゃない…た、滾る…!
元々私がこの人に勝てる要素はどこにもない。
繋がれた手に逆らう事なんて出来るはずがない私はそのまま駐車場に行き車の助手席に乗せられて、シートベルトまでしっかり着けられて、更に着けられる時に近付いた笑顔にポーッとなってたらキスをされて、里村がエンジンをかける頃にようやく意識がハッキリとした。いや、ホントなんの漫画これ?いつの間にかどこかのテーマパークに迷いこんだ?
夢よりも夢みたいな現実ってあるんだぁ。
「ちょっと寄り道するから」
「あ、うん」
また『あ、うん』しか言えない私は今なら神社の狛犬を立派に務めあげるだろう。
なんせ横顔見放題。私の首も横向き固定だ。眼福です。神様ありがとうありがとう。
そうだ今度近所の神社に行こう。お賽銭はずもう。いくらが相場なんだろう。横顔見放題は少なくとも数万の価値はあるはず。お家にお邪魔するのは数十万、…ああそろそろ働かないとお賽銭代を捻出出来ない。いいよ貢ぐ。生写真買うし握手一回千円上等だ。
「…お、なお…、奈央?」
「あ、うん?」
意識がハッキリとしたなんて嘘だった。私はまたどこか違う世界に飛んでいたようだ。
「緊張するからあんまり見ないで…。事故る…」
「あ、うん…うん?…緊張?運転慣れてるでしょ?」
取引先へは電車も使うけど車も使う。
それに里村の運転は評判が良かったはずだ。
頭にはてなマークをポンポン飛ばしていると、赤信号になって止まった瞬間里村がこっちを見たから心臓が跳ねた。
「奈央に見られると緊張するの、わかる?」
「わ、わから…る」
わかんないけどわかるって言っておいた方いいと脳みそが判断した。ジーッと見つめられるのは確かに心臓が止まるわ。
「ほんと、もうちょっとカッコ良く決めたかったのに…」
「里村は」
「紘一」
「紘一くんはカッコいいよ!」
…いちいち名前の訂正が入るのが、近くに居ていい証みたいで嬉しい。でも慣れない。よし、心の声も紘一くんにしよう。
「こういちくんこういちくんこういちくん…」
運転中、ずっとぶつぶつ名前を呟いている私を見て、「ほんと可愛い」と紘一くんが言った。死ぬかと思った。
着いたのは、ファストファッションのショップだった。
「着替え欲しいかと思って」
「ほっ欲しい!」
そうだったこの汗臭い格好じゃ百年の恋も覚めるだろう、というか車のなかは大丈夫だったのだろうか…。今更ながら冷や汗が落ちてくる。シートが汗だくという事は無かったはずだ。季節はもう冬にかかっているし、汗は引いてから車に乗ったはず。
ぐるぐる考えながら、下着と普段着を買った。
「ちゃんとした店に連れてこれなくて」なんて言われたけれど、とんでもない。紘一くんと入る店はどこも一流ブランドより価値があるのだ。それにこの格好で入れて全部一括で手に入る。最高だ。
しれっと最後に女物のスウェットを入れたのが見えた。…それはまさか、パジャマ代わりのアレですか。まさか、まさかそういう…いやいやまさかまさか。まさか…!そこまでは無理!…だけど、そうなったら断れる気がしない…。でも心というよりは体の準備が全く出来てない。無理…だけど断れる気が…。
「奈央、行こう」
いつの間にか会計が終わっていた。
「あ、お金!」
「いらない。俺が勝手に家に来て欲しいだけだから」
「でも…」
「奈央からもらったお金、それで買った事にして」
…そうだ。私は紘一くんに最後にお金を渡したのだ。最低な別れと共に。気持ちがわかった今、なんてことをしたのだろうと…ツキツキ心が痛む。
「ごめんね…」
思わずそう呟くと、紘一くんが私の頭を撫でた。
「今、こうしていれるからそれでいいんだ。その事もちゃんと話したい。長くかかると思うから」
…うん。色々話そう。私もたくさん話したい事があるんだ。
嘘をついて言えなかった事がお互いにたくさんある。
言えなかったから過ごせなかった時間もある。
その時間を少しずつ埋めていきたい。きっと、これからずっと一緒の長い時間のなかで、あのときの事はただの笑い話に出来るように。
「どうぞ」
「ハイッ」
玄関のドアを開けられて、入るように促される。
前は、入った瞬間に…キ、キスされたんだよね…。
ドキドキして、カチンコチンになった私は居酒屋店員のように元気に返事をしてしまった。
背後からくすりと笑う声がして、とん、と肩を押される。
がちゃり、とドアが閉まって。
………。
………。
あれ?何もない。
「靴脱いで入って」
直立不動で背後からのバックハグをまっていた…訳じゃないけど。てっきりバックハグからのチューかなって思ってた。その後流れで、なんてそこまで、もしかしたらあったりするのかどうしよう断れない!なんて考えた自分が恥ずかしい。
平然と私より先に靴を脱いで紘一くんはリビングに向かった。
「お、おじゃまします…」
「どうぞ」
ごそごそと買い物袋の中から一式を取り出して渡される。
ちょ、下着は勘弁!意外とこういう所は雑なんだ。…ギャップ萌えってこういうことをいうのかな!どっちにしろ、好き!
「汗、流したいだろ?先に風呂行って。俺は食べるもの用意しておくからゆっくりでいいよ」
「うん」
…別に期待してた訳じゃないけど、あっさりしすぎてない?
あれかな。さっきは再会にちょっと興奮しただけで、もう会えたから気持ちが落ち着いてきたとか。
去られたから気持ちが高まってただけで、もう目的完了、みたいになっちゃったのかもしれない。汗だくサッカー後で化粧だって最低限だし…というかもう全部はげてるし。
はぁ、短い恋だったなぁ。
まあ横顔見れたし…レアな涙も見れたし…うん、悪くなかった。
多分私は残念な顔をしてたんだろう。
「あのさ、そのしょんぼりした顔やめて…」
「あ、ごめん…」
シャワー浴びたら帰ろう。
そう思って着替えを受け取ろうとしたら、着替えを一回テーブルに置いて、手をぎゅうっと握られた。
「そういう顔みると抱き締めたくなるから困るんだよ…」
「へっ?」
「…我慢してるんだよ。奈央に嫌われたくないから、嫌なことは絶対にしたくない。今日は何もしないから安心して」
頬を赤く染めて告げられるその言葉を理解するのに時間がかかる。その間、じいっと見つめあっているんだけど、私も言われた言葉の意味を考えていたから、いつもみたいに恥ずかしくも無かった。
「キスもだめなの?」
「!」
出てきた言葉に自分で驚いた。だけど紛れもない本心で。
あ、恥ずかしいことを言ってしまった、と思う前に頬に手が添えられて、軽く啄むような優しいキスが降りてきた。
何度も何度も、その数だけ好きだと言われているようで嬉しい。
やがてそれも終わり、目を開けると明らかに困ったような紘一くんの顔があって、私は首を傾げた。「あぁ、もう」と呟いて、私に着替えを渡す。
「可愛い顔しても、ホントこれ以上無理だから…。今も俺、夢の中にいるんじゃないかって思ってるくらいテンションやばいし、大事にしたいから。頼むからお風呂にいってきて」
もっとキスを、と言いたかったけれど、なし崩しにコトに及ぶのは、私も無理だと思う。ささっと着替えをもらってお風呂場に駆け込んだ。
一応ごしごし体を洗って、何度も臭いを確認してからお風呂を出た。家でも一緒のシャンプー類を使っているけれど、やっぱりご本人のものは特別違う香りがするような気がする!プレミア?付加価値ついてる?
洗面所には丁寧にコンビニで買った旅行用のスキンケアセットが中身を出した状態で置いてあった。
ありがたくそれを使い、コスメは最低限しか持ってきていないので潔く諦めた。だってもうさっきからほぼすっぴんだし。
「お風呂ありがとう」
ダイニングに行くと、コンビニで買ったお弁当類がちゃんと綺麗にお皿に乗っていた。
「わー、すごいね。紘一くんこういうの得意なんだ」
「普段はやらないけどね。少しでもいい所見せないと」
「!」
それは、私に良く見られたいとか、そういう事…だよね?
うん、もう気持ちを疑うのはやめて向き合わないと。だって私と紘一くんは、こ、こ、恋人なんだし。
「何をしても、どんな紘一くんでも好きだよ」
「…ありがとう。俺もだよ」
なんとなく、二人で照れながら食事をした。
会話は大事なことはぼかして、会社の話とか、私のサッカーの話だとか、そんなこと。
その話はきちんと時間をとって、真剣に向き合わないといけないんだって二人とも思ってたからだと思う。
食事の後片付けをして、ダイニングテーブル挟んで向かい合わせに座ると、紘一くんが私の手を握った。
「ちゃんと、最初から話したい。全部聞いてくれる?」
「…うん。私も最初から全部話すから…、聞いてね?」
――話を聞くと、私のほうが悪女だった気がしました――
「私、…ほんとに最悪じゃない?」
テーブルに突っ伏して私は深いため息をついた。
唸る私の頭に紘一くんの手は当たり前のよう降りて、髪を遊ぶように撫でる。ああ、これ…好きなんだよね…。
「全然だろ。俺が全部悪いんだから」
「ちゃんと、好きって言ってくれたの信じれば良かった…」
「賭けだって思わせてたの俺だし…。俺の方が、もう…ホントに俺でいいのかな?奈央のそばにいるの。もう離さないけど」
心臓がキュウウウウウと鳴った。
「奈央」
席を立って、私の背後にまわるとそっと椅子ごと抱きしめられた。
「好きだよ」
私の肩に顔を埋めて耳元に切なげに揺れる声色が、本気を全身に伝えて来て、私の視界も揺れる。
「私も、大好き」
抱きしめられた腕をぎゅっとして、その頭に自分の頬を擦り付けた。
紘一くんは小さくありがとう、と呟いて、腕の力がいっそう強くなる。
幸せで死んじゃうかもしれないと思ったのは、きっと人生二度目。
でもあの時はいつか来る別れを分かってて、幸せだけど苦しかったと今なら思う。
好きになってもらえないのにどんどん好きになる自分が辛くて、どうしたらいいのかもわからなくなって、逃げてしまった。
でも、今のこの幸せは本物なんだ。
もう諦めなくていいんだ。
それが、とても嬉しい。
夜も遅くなったけれど、もちろん私が帰してもらえる事は無かった。
「布団一応あるけど…一緒でもいい?何もしないから」
そう言われて「いや布団がいいよ!」とは言えない。今日の精神状態からすると心の底からそっちを望んでいたとしても、だ。
うん、と首を縦に振るしかない私に苦笑して、手を繋いで二人でベッドに潜り込んだ。
そこまではドキドキしていたのに、ベッドに入った瞬間ふんわり漂う香りに私はただの変態となる。
「ああ、紘一くんの匂いがする…」
「!…ちょっと恥ずかしいんだけど、それ」
クンクンうつぶせになって犬みたいにベッドの匂いを嗅ぐ私に困った様に紘一くんが言った。
何を…ここはボーナスステージなんだからやりたい放題でいいではないか。
「いい匂いだからいいでしょ?ホントに好き」
「…奈央」
うつぶせになって枕にグリグリ頭をくつけていたら、上からふんわりと抱きしめられた。
「へっ?」
「今日はさ、ホントにぎゅってしたいだけなんだ。奈央がちゃんと、俺と一緒にいてくれるんだって安心したい」
だから煽らないで、と色っぽく言われて、固まった。
ついつい匂いにかまけてしまったけれど、三カ月ぶりなのだ。私にとっては諦めで終わっていた三カ月だけど、紘一くんにとってはきっと違ったこの時間。
もう気持ちを疑うことなんてしない。それに対しては不安も無い。本当に好きでいてくれることがわかったからこそ、その気持ちを思うと幸せで嬉しくて、そして…申し訳なかった。後悔した。
くるりと体勢を変えて、ちゃんと顔を見ながら私もその背中に腕を回す。
「ずっと一緒にいるね。もう絶対に逃げないし離れないから。私は紘一くんが好きだよ。大好き…」
今日何度目になるかわからない告白は、ゆっくりと落ちてくる唇に塞がれて空気に溶けた。
そのまま、とりとめのない事をまた話しながら、ゆっくりと眠りに落ちる。
三カ月ほとんど寝れてないんだ、と紘一くんが言ったから、私は抱き枕になる決意をした。
寝るのがもったいない、と言ったから、私は一人でボソボソとしゃべり続けた。
明日になっても隣にいてくれる?と言ったから、私はぎゅっと力をこめて服を握った。
どうして明日が月曜日なんだ…と悔しそうに言ったから、それはどうにもならないな、と少し手をずらして頭を撫でた。
そのうち寝息が聞こえてきて、私は…。
ギンギンに目が冴えていた。
ドキドキしすぎて寝れる訳ないでしょ…!
なにこのプレイ。どんなボーナスステージなの?寝顔写真に撮りたいけど、体を動かすことは出来なそうだし。というか今日一日もう一回振り返ってみようよ私!
――うん。やっぱり夢なんじゃないかな?
でも、目の前にいるのは本物の紘一くんで、あんな甘いセリフを垂れ流してくれたのも現実だ。
実は今日、百回くらいは肉をつねってる。気付かれていないと思うけれど、太ももは真っ赤になって、じんじんしているのだ。
それでも目が覚めないのだから、現実なんだ。
完全に諦めていた、世界で一番、とても大好きな人とこれから恋人になれるという嬉しさと、ここが人生の頂上であとは落ちていくだけなのではないかという不安が胸をかすめる。
もちろん、ここまで思ってくれている気持ちを疑う事はない。そういうのとはまた別の…ずっと好きだったアイドルと交際をすることになった一般人的な感じなのだ。
もちろん偶像として紘一くんを好きだったわけではないし、それよりは壁は低かったとは思う。
でも私の頭の中ではやっぱり、とてつもなく高い壁のてっぺんにいた人という認識がやっぱりまだあるし、今だって、ちょっと顔を見たらやっぱり格好良すぎてぱっと目を逸らしたくなる。相手は寝てるのに。
「いつか慣れる日がくるのかなぁ」
ぴったりした体の間を更に埋めるように、私は頭を寄せた。
無意識だろう、私の体にまわる腕の力が強くなって、私はまたじんわりと零れ落ちそうになる涙を遮るように、目を閉じた。
「ん…」
いつの間にか寝ていたらしい。動こうとすると、まだ後ろから抱きしめられているのだとわかった。
一晩中こうだったんだろうか…。
向き直って寝顔を見つめる。寝ててもカッコイイとかすごいよね…やだ、私彼女っぽくない?あ、彼女なんだ。
じわじわと口角が上がるのが自分でわかる。とんでもなく私は今、ニヤついてる。
つん、と額を押すと「ううん…」なんて唸るのがまた…かっこいい。
よほど疲れていたんだろうな。そしてその原因を作った一つが自分であることは間違いないわけで。
朝ご飯くらいは用意しようと思うのに、抱きしめられている腕が離れない。
「紘一くん、朝だよ…」
やんわりと呼ぶけれど、起きない。
「紘一くん遅刻だよ!」
大きめに声を出すと、ううん、と唸る声は再度聞こえたけれど、それでも起きない。というか可愛い。
後ろ髪をひかれる思いで無理やり腕を外して起きあがると、その頬に一度だけキスをして私はキッチンに向かった。
…簡単な朝食だけれど、それを作り終わってもまだ起きる気配がない。時刻はまだ余裕はあるけれど、せっかくならバタバタした朝のお別れはしたくないな、と思ったので、もう一度起こしに行く。
「紘一くん。朝ご飯出来たよー。起きて」
トントンと毛布の上から背中をたたくと、今度はきちんと反応があった。
薄目をあけて私を見ると、目じりを下げて極上の蕩ける笑顔――って、それは…私死んじゃう。
「…奈央?」
手がするりと私の頬を撫でまわす。
なんでしょうかこのご褒美タイムは…。固まって動けない私に、その手は頭に回って後頭部に触れる。
そのまま引き寄せられて、私はベッドに倒れ込むようにして抱きしめられた。
「………」
「………」
ドクドクしてる心臓を止める術なんてしらない。
やがて紘一くんの方がしっかりと覚醒して、ガバっと体を起こす。
「…なお?」
「ハイ」
「…なお」
「ハイ」
「なお…昨日は現実だよな?」
「ハイ」
「今日も夢じゃないよな?」
「ハイ」
何度目になるかわからない、それでもまだ慣れるわけが無い抱擁にドキドキしてる私を置いてけぼりにして、紘一くんは確かめるように背中にまわった手を動かす。
というか私の妄想癖がうつっちゃったのかな…?それは申し訳ないなぁ。
「紘一くん。残念ですが現実として起きないと遅刻です」
「!」
時計を見てため息をつくとようやく私を解放した。
「ご飯作ったから食べていってね」
「ありがとう」
もそもそと洗面所に向かうのを見届けてトーストを焼きにキッチンに戻った。
しっかりワイシャツとネクタイを着込んだ紘一くんを見て、何度目になるかわからないけれどまた惚れ直す。
…眼福です。三カ月ぶりのスーツ姿…いい!いいよ!
一生懸命普通の顔をしてやり過ごそうとしている私の努力など知る由もない紘一くんが、何気なくテーブルにかちゃり、と音を鳴らして何かを置いた。
それが何かを理解するのに、私だけだったら三年はかかったかもしれない。
「これ合鍵ね。ほんとは今日も待ってて欲しいんだけど…というか引っ越し本当に検討しておいて?」
「え、本気だったの?」
私がうっかり本心を言うと、心外そうな顔をされた。ごめんなさい。
「本気に決まってる。すぐには無理かもしれないけど、俺はもう奈央と離れる気ないから…お願い」
「箱根かな熱海かな北海道かなそれとも海外行くのかなパスポートはどうしようそうだお土産は何にしようかなせんべいかな佃煮かな観光地の撮影スポットちゃんと写真撮れるのかなどうしようかなわたしそうだわたしわたしわたしお墓にはこだわらないし宇宙葬でもいい樹木葬とあとは」
「な、奈央?」
慌てた様子で紘一くんが声を掛けてくれるけれど、私の脳みそはもうキャパシティーを完全に超えたようだ。
妄想の向こう側に旅立って、新婚旅行からすぐ臨終した。成田離婚ならぬ成田臨終。
「奈央ー!もどってきてーー?」
肩を掴まれてユサユサされて、それでも止まらない妄想に支配されている間、紘一くんは諦めたように私の頭を撫で続けていた。
――こんな風にして、私たちの本当の恋人関係は始まりを迎えたのだった。
これから続く、共に歩む長い長い人生の、最初の日の朝のこと。
おわり